すっぽん伝説と自然の中のすっぽん

すっぽんは昔、たぬきやきつねが人間を化かすいわゆる「妖怪」とされたのと同じようにすっぽんも「妖怪」とされた事があります。人間に対してどのような事をするのかというと子供を誘拐したり、血を吸ったりします。

 

今では人間がすっぽんの生き血を飲んだりしているので、真逆な事をしています。

 

また、すっぽんは恐ろしく執念深いと言われており、食べすぎると幽霊になって祟りが起こるとされていました。そして江戸時代にすっぽん屋を営んでいた夫婦が寝床で夥しい数のすっぽんの幽霊に苦しめられたという話が残っています。

 

私は“食べすぎると”という表現をしている辺りが、すっぽんの美味しさを示していると思いました。“食べると”と表現してしまうと全く食べられなくなるため、あえて“食べすぎると”と表現して少しは食べられる余地を残したのだと思います。

 

別の話としてはすっぽんを食べて、幽霊に祟られ手足がすっぽんの形になってしまったというのがあります。

 

当然、実際に幽霊になって祟られるとか手足がすっぽんの形になるというのはあり得ません。昔の人はすっぽんをどのように見て、どのように感じたのかは分かりませんが、そこにはどこか怪しい魅力があったのかもしれませんね。

 

自然の中のすっぽん

 

初めて「すっぽん」というカメがいると聞いたのは小学生の頃だったと記憶しています。その名前を教えてくれた同級生はこのようなことを付け加えました。「このカメは一度かみついたら絶対に離さないらしい」と。

 

私は想像しました。いったいどんなに獰猛なカメなのかと。それから何十年も経って私は初めてそのカメを目にしました。仕事の関係で中堅都市の国道沿いに住んでいたのですが、たまたま入った料理店ですっぽんと出会ったのです。

 

灰色がかって首の長いその姿は、なぜかおっとりとしたカメに見えました。妻が「この店はすっぽん料理を出すのよ」言いました。私は「これを食べるのか」と言ったのですが、妻はあっさり「そうよ」と言ったのでした。

 

カメを食べることにも抵抗があったのに、妻はとてもおいしいらしいと言うではありませんか。その店の水槽に何匹も入っている姿を見ていましたが、食べようという気にはなれませんでした。

 

話は変わりますが、自宅の住宅街の近所に長距離トラックの運転手を退職し、趣味で闘鶏のためのシャモを買っている方がいました。ひょんなことから知り合いになって、時々話をしました。ある日その方は私に言いました。

 

「この前そこの用水路ですっぽんを捕まえましたよ」と。どうやって捕まえたのかと聞くと、ちょっとした網ですくったのだと言います。その後の話が印象的でした。「こういう生き物は、土と水が触れ合っているところでないと生きていけないのですよ。

 

私は散歩の時、このすっぽんを捕まえた場所をずっと観察してきたのですよ。あの場所だけコンクリートが途切れていて、土が見えていますからね。必ずいると確信していたんです」とその方は話しました。

 

そのすっぽんを、きっと食べたのだろうなと思いましたが、そこは聞きませんでした。土と水が触れ合っている場所は、時代とともに激減しました。都市化されるとともにそのような場所はなくなって行ったと思うのです。

 

もちろん水利の効率は上がるでしょう。しかし同時に水に住む生物の繁殖の場は激減したと思うのです。市街地を流れる水路の、土と水が触れ合うところにすっぽんがいた。これはこのことを十分物語っているように私には思えます。

 

この日の会話のあと、私はどうしても自然の中のすっぽんの姿をカメラに収めたいという思いが消えなくなりました。一か所「噂の場所」があったのです。もう何人もの人がそこですっぽんを捕まえたという噂です。

 

私は車を走らせ郊外のその場所に行ってみました。その場所は郊外のある陸橋の下でした。河原に降りて、静かに静かに、バレーボールほどの直径の平たい石が水面から顔を出している日陰の水際を歩きました。

 

二十メートルくらい歩いた時、石の上にシルエットが見えるのです。私はやったと思いました。首から下げたカメラのスイッチをオンにし、息を殺すように近づきました。紛れもないすっぽんでした。

 

ファインダーに収まったその瞬間、すっぽんは「ちゃぽん」という音を立てて水の中に消えたのです。シャッターを押す寸前でした。すごく悔しかったのですが、何となく心が温かくなりました。

 

すっぽんは、確かに自然の中で生きていたのです。すっぽんを食べることは、すでに文化となっているのでしょう。だからこそ彼らの本来の棲み家である自然の中で生きることができるようにするのは、私たちの責務と思えてくるのです。